第29号
4月10日(土)
おおひん地区まちづくりに向けて

<はじめに>
 川崎市の南部には、旧日本鋼管、第一セメントといった企業の工場群があり、京浜工業地帯の一画を形成している。このエリアに隣接する今日名称も定着してきた「コリアンタウン」は焼肉や韓国・朝鮮料理の食材を販売する店が80軒ほど集まる下町情緒あふれた街だ。
 この地域を「おおひん地区」と名付けたのは社会福祉法人青丘社理事長李仁夏氏である。氏はこの地域が大島、桜本の「おお」、浜町、池上町の浜に面している「ひん」つまり、4つの町名をもじって「おおひん」と名付けたという。
 1991年11月、この地域の住民が一致協力して街づくりにとりくむ基盤をつくるため、商店街が中心となって、町会を巻き込んで「おおひん地区まちづくり協議会」が発足した。シンクタンクは、社団法人川崎地方自治研究センターが担った。この当時の話を雑誌「JOY」のインタビューで地域と自治研センターの橋渡し役を務めた飯塚正良は語っている。
 「1972年に私が桜本に住み始めた頃は、公害もひどく人の心も荒れていた。でも1988年には、在日韓国朝鮮人が自分たちの文化を語り継ぐ拠点として川崎市ふれあい館がオープンし、この頃、多民族多文化共生という言葉が定着してきた。90年代に入ると、商店の経営者たちはかつての街の賑わいを期待し、また町内の住民たちは下水道や道路、公園など住環境の整備を求めて街づくりに取り組み始めた。この二つのベクトルを合わせ、多文化共生の街づくりをキーワードにまちづくり協議会を出発させた。」
 協議会が発足した年、神奈川県から商店街活性化資金が計上され、この協議会の地元への認知を広めようとして企画されたのが「おおひん地区国際交流フェスティバル」である。
 この時、自治研センターはワークショップを得意とするグループが企画・運営で協力。都市計画を研究するグループは本格的な街づくりプランを作成した。(1993年11月刊行)
 1992年3月、3日間にわたってフェスティバルが開催された。街づくりセミナー、韓国や朝鮮の舞踊や音楽を紹介するコンサート、5メートル四方の地図に地域の文化財や公園、これから欲しい施設を書き入れて理想の街を描くガリバー地図など多彩な催しに1000人を超す人が集まった。
 翌、1993年4月、第1回「おおひん地区春の祭」が桜川公園で開催されるようになった。
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2〜5:
6〜8:
9〜11:
ふれあい館
1992年3月「おおひん地区国際交流フェスティバル」
1994年第2回「おおひん地区春の祭」
2004年第11回「おおひん地区春の祭」
<おおひん地区まちづくりプランについて>
−前文より−
 「私たちは、町の100年の歴史を踏まえ、地域に暮らす人々の文化背景を尊重した『多文化共生の街づくり』を基本理念とし、さらに子供、女性、高齢者、障害者、新しく日本に来て暮らす外国人などすべての人にやさしい街づくり、人権を大切にする街づくりを目指します。」1993年11月

−街を知る(現状把握)−
おおひん地区の「ひと」の動き
@ おおひん地区の年齢別人口構成を他地区と比較してみると、20・30代の人が極端に少なく年少人口も少ないこと、さらに高齢化が進んでいることがわかる。1975年の人口構成と1993年のそれを比較すると、最も多かった20の人口が減少し、20・30代が他の地区へ転出していること、4歳以下の子供とその母親の世代、20代後半から30代前半の女性が共に半減し、逆に65歳以上の高齢者の割合が倍増している。
A 1世帯の規模が減少している。
おおひん地区の人口減少の要因
@ 臨海部の工場などに働きにくる若い人々の流入が減った。
A アパートなどに住んで、臨海部に勤めていた人々が仕事上の理由(転勤など)や住環境上の理由(持ち家の購入や郊外への転居)で転出したこと。
B 結婚や就職などによって世帯分離した若い人々が転出したこと。
C 他の地区に比べ、新しいマンションやアパートの建設に伴って流入する人々が少ない。

−街の動きとその問題を探る−
人口減少に危機感が芽生える
 おおひん地区の人口減少とこれに伴う地域活力の低下といった状況は、危機感として地域の人々に受け止められている。外から来た人にとって町の印象は、道行く人々や路地で遊ぶ子供たちの表情で決まる。
 人口密度をみると、おおひん地区は過密な住宅地といえる。住宅の規模を一世帯当たりの畳数で見ると多少ゆとりが出ている。しかし、まだ建物の老朽化や建て詰まった状態は改善されていない。依然として居住水準は高くない。街は若い人の姿が減り、建物も老朽化し活気のない沈んだ顔つきになっているのではないか。

環境と安全に対する不安
 建て替えが進まない理由として便利な場所にもかかわらず、新しい住宅需要が乏しい。川崎駅の周辺や東京・横浜に勤める人々、あるいは研究開発の進む臨海部の工場に勤める技術者や研究者の住宅に古い住宅を建て替えれば人口の問題はとりあえず解決されるはず。なぜこうした人々がおおひん地区に積極的に住もうとしないのか。
 この大きな理由として環境への不安、安全への不安があげられる。池上新田公園の測定所のNOXの観測値が90年〜92年まで全国ワースト記録をつくるとか、池上町内の住宅密集地で3年に1度は大火が起きていることなど、新しい住宅建設にブレーキをかけているのではないか。

−街づくりの視点「残る・戻る・来る」ために−
 この町から出て行こうとしている人々が、この町に残り、住み続けられる町。この町から出て行ったここを故郷とする2世や3世を呼び戻すことができる町。新しい人々が住んでみたくなるような魅力的な町を造りたい。

−おおひん地区の資産とこれからの方向−
便利でユニークな下町情緒
 おおひん地区は大変便利な町。バス路線は幹線道路や産業道路、さらに地区内にもある。日用品、生鮮産品を中心に、桜本商店街などの路線型商店街があり、にぎわっている。焼肉料飲業を中心としたコリアタウンはセメント通りを核として80店ほど企業集積している。
 桜本こども文化センターはふれあい館とのユニークな複合施設として川崎市内で1番の利用実績を誇っている。
 こうした便利でユニークな町を根底で支えているのは、いろいろなところからこの町に集まってきた人々の下町らしい人情です。

多文化共生のニュー下町「エスニックタウン」
 おおひん地区は歴史的事情を背景とした在日韓国、朝鮮人の多住地域。現在の川崎市の外国人登録者2万人。その半分が韓国朝鮮国籍。このうち3割つまり3千人を超すコリアンがおおひん地区に居住している。
 住民に占める割合は全市では1.5%、桜本・浜町地区で10%、池上町では60%となっている。帰化した数を考えるとこれをさらに上回る。
 この街にユニークな文化を根付かせている。かなり遠方にもファンを持つ韓国朝鮮料理店、ふれあい館で行われている日本語識字学校や韓国朝鮮の伝統文化の講習会など広がりを見せている。
 こうした動きは、町に残って生活していこうとしている人々、さらに在日2世、3世のふるさと意識に根ざしている。
 他の地区に転出していった多くの韓国朝鮮人にとってこの地区は「第2のふるさと」でもある。彼らは祝い事の際に必要な品物を買い求めにこの街にやって来る。
 いまアジアを中心に新たな日本にやってくる人々、いわゆるニューカマーといわれる彼らをうけいれ、互いに刺激しあい新たな多様な歴史と文化の共生が必要。この下町「エスニックタウン」の巻頭のページが、今まさに開かれようとしている。

河津桜
−おおひん地区のまちづくりプラン−
 まちづくりの方針として「緑化、環境整備」と「多文化共生の街づくり」を提起する。

「緑化、環境整備にむけて」
緑と花のあふれる町をつくる桜川公園の再整備
このはすでに進行中であり、愛護会を中心とした住民組織が組織され、すでに自主的な段階に入っている。運営費も確保され、園内には花と緑があふれている。
 
安全で便利なまちをつくる
現状
道路が未整備のため、消火活動が十分に行われにくい。
児童、生徒の通路が工場動線と錯綜。池上町が産業道路によって分断。
木造が多く老朽化。古い建物が更新されない理由のひとつとして区画道路が整備されていない。

桜川公園愛護会会長大島会長

こういう街にしてほしい
  生活道路の整備
  杭工事に対する助成
  空き地の有効利用
  池上町の環境整備を考えよう
  行政窓口の確立を

−最後に−
 耳の痛い話かも知れないが、居住者自らこの町をどうしたらいいか、ひとりひとり考えることが必要。
 今、おおひん地区がまちづくりに向けて脚光を浴びようとしている。この機会をとらえ、地域住民の機運を盛り上げ、理解を深め、足並みをそろえ、この街をどうするのか真剣に議論を進めよう。
 11年前にこのプランはまとめられた。今、新たに高齢化時代の中、「安心タウン」をどうつくるのかが問われている。
 日本アビリティー副会長の「安心ハウスから安心タウンへ」を参考にして頂きたい。

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