第31号
ベトナム訪問記

<はじめに>
 今回訪問した5月2日から1週間はベトナムのお祭りウィークであった。4月30日サイゴン解放39周年、5月1日がメーデー、5月7日はディエンビェンフー解放50周年、まさに国を挙げてのお祭りの様子。家々にはベトナムの国旗、赤地に黄色の星印が一軒一軒に掲げられている。ハノイには真夜中の到着でもあり、家の外観しか見えなかったが、大きく様変わりしているという。空港からハノイ市内まで高速道路を経由するが、この高速道路はロシアの援助によるもの。モスクワの影響は強い。行く先々でガイドからこの道路はどこどこの国の援助、この港湾施設は日本の援助という説明を受ける。ダナンの道路、港湾施設、フエの橋、ホーチミンの道路など日本のODAによるものであるが、インフラ整備が国力のどの部分の増進に役立つのか、優先順位づけをベトナム国民はどう考えているのか聞いてみたい思いにかられた。
 サイゴン解放から30年、中越戦争、ベトナムーカンボジア戦争とまさに戦争の明け暮れであった。今、ゆるやかにベトナムは復興に向かいつつある。確かに旧サイゴン(ホーチミン)の治安も安定に戻りつつある。しかし、ハノイのガイドは警察官の腐敗について指摘をしていた。まさに日本の戦後復興がそうであったように、政治と行政がいかに信頼を獲得していけるのか、まさに日本を範として歩み始めているように見えた。そして、何よりも義を尊ぶ心は今日本が戦後60年失ったものに思えてならない。これからのベトナムの将来は明るい。

<ベトナムへの想い>
 私の出発点は1970年にある。1970年慶応大学入学。入学と同時に6月、日米安保条約改定を前に連日、日吉校舎ではクラス討論が行なわれた。北爆によって農民が逃げ惑う姿、北ベトナムから送られてくる報道に涙を流した。何回かベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の集会に参加する。5月に入ると毎週土曜日になると、清水谷公園で午後からベトナム反戦集会とデモが行われた。ベ平連の呼びかけ人吉川勇一さん、小田実さん、小中陽太郎さん3人が勢揃いし、直近の話をしてくれる。
 アメリカの戦艦イントレピッドの米兵4名が戦闘を忌避して亡命、同世代のアメリカ軍人の反乱を目の当たりにする。この1年が私のベトナム体験を確定した。
それから28年、チャンスはあったが、ベトナム行きを果たせず、たまたま2002年来川されたベトナムダナン港訪問団の歓迎会で、相模原自治研センター檜鼻事務局長から戦争資料館に1972年、ベトナムに搬出されようとしていたM48戦車を阻止した闘いの記録を、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)当時代表の一人だった小田実氏に託したいという話を聞き、ぜひ戦争資料館を見てみたいと言う思いが募ってきた。

<ベトナムの印象>
 アメリカとの戦争から40年、その後中越戦争、ベトナムーカンボジア戦争と大きな戦争を闘い抜き、今ベトナムはようやく安定期を迎えた。未だにインフラ整備に財政を投入する力量もないというのが実情。
2日目に訪問したハノイの国立水利研究所所長が奇しくも言っていた「今日皆さんがご覧になったハノイの洪水は下水道整備が立ち遅れているのが原因です。是非川崎市の先進技術を学びたい。」自治体交流の出番かも知れない。
 ダナン港については別項で述べるので、あえて詳しく述べないが自治体間交流が実をあげている一つの実践例ではないのか。ユエの古城の整備がユネスコによって行なわれている。大変ゆったり復元中であったが、このレベルをスピードアップしたらどうか。今日ユネスコへの拠出金は我が国がアメリカを抜いてトップと言われている。もっと積極性が望まれている。
 ホイヤンは16世紀日本の御朱印船が通った商都。町を流れる運河を中心にかつての商人屋敷が復元されている。1999年の世界遺産登録以降、現在でも昭和女子大の研究室が復元に取り組んでいる。ここで私たちは人力車(シクロ)に乗ったが、運転手はとても親日的。片言の日本語で時折説明をしてくれる。そして、復元中の商人屋敷に行くと「私たちが仕事できるのは日本人のおかげです。」と言う。
 Banjiroの墓を訪れた時、墓地先の民家から老母が出てきて線香を差し出された。500年近く墓を守ってくれたことに対する感謝と共に、新たな友好を願わずにはいられない。
 最後の訪問地ホーチミン市でも、ガイドのトット氏曰くメコン川に架かる3橋は各国の援助で整備された。一つはロシア、二つはフランス、三つは日本である。1990年代ODA関連のみならず日本人観光客も土砂降り的にやって来た。昨年はSARSの為か日本からの観光客もめっきり減り、水を飲んで食いつないだという話を聞いたが、誇張はあるが本音かも知れない。6日間ハノイーダナンーホイヤンーユエーホーチミンと歩いたが、ハノイとホーチミンで日本人観光客と遭遇した以外、残念ながらいわゆる観光地と言われる所には日本人は来ていない。例えばホイヤンにしてもユエ・ミトにしても。ホーチミン市の郊外クチトンネルの見学客が毎年減っているという。確かにベトナム戦争の記憶が次第に薄れている今は分からない訳でもない。
 しかし、ベトナムのこれからを考えた時、ベトナム軍と戦った連合軍、アメリカ・韓国も含めてどういう友好関係を創り上げていくのか、外交方針を決めるべきである。具体的にはホーチミン市の周辺にどのような観光資源とコースを整備するのか検討を進める必要がある。
 ダナン市で聞いた日本―ダナン直行航空便の創設、ダナン港のコンテナヤードの10月供用開始はもしかすると中部ベトナムと日本を直接結ぶ起爆剤をなり得るかもしれない。

<産業を中心に>
 ダナンのガイドジャン女史が言っていた。「ベトナムの男性はなまけ者。暇があれば新聞を読むかギャンブル」これに比べると女性は働き者である。確かに戦争に明け暮れの結果、生産手段は壊滅的に破壊され、工場生産には限られた人しか従事できなかった。これに対して女性は一家を預かり「肝っ玉かあさん」としてしっかり生き抜いてきたと言える。
 問題は製造業に雇用を増やせるか、公共事業を中心とするインフラ整備にどれだけ雇用を広げられるか。3期作も可能という温暖な気候を利用した効率的農業が可能なのか。これらの実現により、大きく人口構成比も変わってくる。
 そしてこの時にベトナムの最も大きな利点、新たな社会主義としてのドイモイ政策が国民の中に浸透し、生産が上げられるのではないか。

<おわりに>
 坪井善明氏の著書『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』は日本人が忘れていたベトナム人の持つ義の心が国民性の根幹にあることを指摘している。
 2日目夜、ダナン空港に降り立つと港湾関係者10名程の熱烈歓迎を受ける。私たちはあくまでプライベートとはいえ、おそらく井戸掘りとして大恩ある吉田氏をはじめ尾形女史のこれまでのダナン港との友好関係が凝縮して見えた気がした。こうした温かい気持ちのベトナムの友人に会えたことをうれしく思うと同時に、これだけの関係を創り上げてきた吉田氏をはじめとする川崎のベトナムソサイティの仲間を誇らしく思う。
 そこでベトナムソサイティが創り上げてきた点から線、今日面的な広がりを持ち出していることを、川崎市の対アジア政策の一環としてどう位置付けるのか、本市交流施策にどう反映していくのか考える必要がある。

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