第41号
その男計り知れず 浅野総一郎

平成14年4月18日
新田 純子
<プロフィール>
 東京出身。(父の転勤中に名古屋に生まれ、5歳から東京)、 昭和40年立教大学文学部卒。在学中東京オリンピック通訳。
 創業後は旅行社勤務。後、OTCA(海外技術協力事業団)通訳。
 『飛蝶』で「第26回女流新人賞(中央公論主宰)を受賞。その後、小説、エッセイ、紀行文などを雑誌などで執筆。最近は、エッセイ“はばかりながら 私のトイレ史裏街道”などを某雑誌で10回連載。
 日本ペンクラブ会員。
 著書に『飛蝶』『猫とマリモ』『万葉人の遺言』『トルコ幻想』『はるかなるトルコから』などがある。
 最近2年で、『総一郎を歩く』と題する論評を雑誌に18回連載。
 “その男、はかりしれず”をサンマークより出版。この執筆に関連し、産経新聞,読売新聞、北国新聞などから取材。また、関係機関より講演など。
 浅野総一郎の人物史と日本近代化への貢献は私のライフワークの大きな柱の一つです。

 今日は川崎ロータリークラブの錚々たる皆様の前でお話させて頂きますことを光栄に思うと共に、恐縮いたしております。非常に緊張していましたけれども、皆様で歌を歌われたり、すごく和やかな会で、私の肩の力も抜けてきたように思います。今日は、「不況にめげない陽気な経営者」とでも題して精一杯お話させていただきたいと思います。
 浅野財閥創始者、浅野総一郎は一般に「セメント王」とか「京浜工業地帯生みの親」として知られています。まさに独創性と冒険性によって企業を創立するアントプレナーであり、人生後半はベンチャーキャピタリストである安田善次郎と共に、国家百年の計に取り組みました。
 アントプレナーというのはフランス語で、中間、とか受取人などの意味もあって、所詮経営者とはちょっと別ですので、私としては浅野総一郎の特徴に、[緻密な科学性]を付け加えたいと思います。
 鎖国の眠りから覚めたばかりの日本は、諸外国に追いつくべく、猛烈な勢いで様々な事業展開を驀進していきました。そこに関った一人の男の人生は物語として面白いと思います。ところで浅野を多少知った方は〔緻密な科学性〕という言葉に反論というか新しい印象をお持ちになるかもしれません。と申しますのも、「俺は水売りから身を起こした。俺は無学だ。」というのが浅野総一郎の生前の口癖ですが、彼は富山県の能登半島の付け根にある村医者の息子として生まれ、やんちゃな面もありましたけれども、生来、頭の回転が早く、興味のあることには非常に努力をする人でした。
 明治4年に上京して、3ヶ月間水売りで日銭を稼ぎ、横浜に越してからは、タダ同然で手に入る竹の皮に目をつけて、大成功します。その仕入先である千葉には船に飛び乗って行きますが、この海路は今のアクアラインそのものです。このように地の利、人の繋がりにいち早く目をつけていく人間で、得意先を増やし、事業は綿密な分子式のように発展していきます、1年後、竹皮より儲けの大きい薪炭商に商売変えをします。つまりエネルギー商人浅野のスタート。これが明治5年秋です。
 自己資本と呼べる蓄財をした段階で、石炭商となり、横浜ガスに石炭を売りに行ったところ、コールタールとコークスが捨てたままになっている。そのコークスの燃料化を必死で研究し、深川の当時官営であったセメント工場に売り込みます。
 当時のエピソードに、定刻、日本銀行に毎日金を預けにくる男がいる。それも、かなりの大金でしたから、日本銀行の頭取渋沢栄一の耳に入らないはずがありません。「あれは誰だ?」「コークスで大成功した浅野という男です」とのことで、渋沢栄一から「民間人にすごい人間がいる」と驚かれました。ところで、石炭などの納入で日々出入している官営セメントの人間の仕事ぶりはまるで遊んでいるようにしか見えません。その上、巨額の国家財政を注ぎ込んでいるにもかかわらず赤字でしたから、「私なら、きっと日本一のセメント工場にするのに・・・」と悔しがります。
 不思議なことに世間の考えがしだいに「国営より民営に」と変わっていきます。若い頃の浅野には世間そのものの動きを変えてしまう活力があったと私は思います。が、簡単に実現はしません。三菱は別荘に、三井は倉庫にでもしようとの話が持ち上がり、「これだけの設備を無にするとは!」とさらに奮闘。ついに夢は実現します。払い下げ条件は浅野の場合は「確実なる営業人」でした。
 浅野は石炭商でしたから石炭には詳しい。遠い筑豊から運ぶより、東京に近い炭鉱の開発が急務であることを力説し、当時立ち遅れていた常磐炭鉱開発に積極的に取り組みます。常磐炭鉱近代史の父は渋沢そして浅野と断言しても過言ではありません。石炭を運ぶために常磐線敷設計画を最初に打ち出すのも渋沢と浅野です。ここで面白いのは、現場をよく知る浅野が年長者である渋沢に積極的に具体案を出していった点だと思います。
 石炭を産地から運ぶには鉄道敷設の前は船で、当時の三菱汽船と火の出るような激戦をしたのが共同運輸でした。浅野はその実務を担当し、戦いの先頭に立ちました。岩崎弥太郎はこの戦いの真っ最中に倒れて52歳の生涯を終えます。国としてもこのことに驚き、調停案を出し、新しく日本郵船がスタートします。浅野は密かにそれに対抗し、浅野回漕部を創設し、故郷富山などから米を割安で運んだりして大奮闘します。
 また、当時始まった株式制度で、自己資金を持つ者たちの投資で産業が発達していきます。例えば浅野総一郎は、東京ガス8人の創始者の一人です。意外と現在では忘れられていますが、札幌ビール3人の創始者は渋沢栄一、大倉喜八郎そして浅野総一郎です。この3人の関係をちょっと申しますと、年齢は大商傑である大倉さんが一番上、1歳下が渋沢さん、そして9歳年下が浅野総一郎で、若手実務家として活躍しました。帝国ホテル創設や高峰譲吉の人造肥料椛n設にも関りました。
 浅野の生涯は短時間では全部述べきれませんので、今日お手元にお配りした雑誌「クラクション」に、彼の海運事業、化学工業への貢献、小牧ダムを一生懸命造ったなどの話が1シリーズずつ掲載してございます。全体像は表紙に添えた目次を読んでいただければお分かりいただけると思います。
 ちなみに先程ご紹介いただいた「その男、はかりしれず」は、この雑誌とはタッチが違いまして、一気に読みきれ、わくわくする面白さです。ご一読くださいませ。物語を書くにあたり、色々な方々にお会いし、色々な会社の社史も参考にさせて頂きました。また、港湾関係の書物なども参考に致しましたが、沖電気なども浅野総一郎が懸命になって盛り立てていった会社です。また、小樽の怒涛逆巻く海は遭難が多く、小樽港築港の難工事は、浅野総一郎だけではないでしょうけれども、勇気有る人々の奮闘努力でなされました。北海道では有名な方ですけれども、広井勇という方と深い信頼関係で、「この港が崩れたら浅野セメントも広井勇も崩れるのだ」と、百年もつ港を造りました。
 また小倉では、国鉄の線路が海岸線ぎりぎりを走っていて、その海辺を埋立て、ここは現在、近代的ホテルが建ち、新幹線が走っております。新幹線のホームは浅野一丁目で、浅野の埋立地です。
 さて今、何故、総一郎なのか?浅野総一郎の生涯を読んでいただくと、近代日本の経済史がぎゅっと凝縮されていまして、どういう風にして今の日本が出来上がったかが手にとるように分かると思います。そして当時の人達が、日本人として大きなプライドを持って、必死に頑張ったことがひしひしと皆さんの胸に迫ってくると思います。
 今、日本に力がないと言われますけれども、もともと日本というのはそんなに立派な国じゃなくて、外国に追いつくこと、貧乏から抜け出すことに一生懸命だったのです。そのことに懸命に取り組むうちに世界に肩を並べる超一流国になった。私は経済の専門家ではありませんので、経済問題を云々することは避けますけれど、今こそ原点に返って一からやり直す力を皆に持っていただければと思います。さてここで、男の中の男の物語を一つ二つご紹介したいと思います。
 横浜港からサンフランシスコ迄の航路、そこに日本人で初めて航路権を得て、日本の旗をはためかせた船を走らせたのが浅野総一郎です。黒船に大砲を積んでペルーがやって来たのは、航路権を得たいためで、幕末から何十年もの間、日本人は外国向けの船を走らせることが出来ませんでした。その為に、例えばノリタケの創始者である森村市左衛門さんは、陶器を輸出するにも外国船に船賃を払わなければなりませんでした。多くの留学生がアメリカやヨーロッパに、森鴎外なども留学していく時に外国船で出かけました。そういう状態が明治28年位まで続き、それが悔しくて仕方がない、どうにかして外国向け航路を獲得したいと思い立ちました。明治29年の夏、大川平三郎を通訳として、大砲とかそういうものは持たず、持っていたものは「くそ度胸」、それだけをもってサンフランシスコへ渡ります。サンフランシスコでは弁護士界の父、またオリンピックの父と言われる岸清一がその当時まだ駆け出しで、弁理人という立場でしたけれども、彼のアドバイスを得て、ニューヨーク迄汽車で大陸横断し、直接社長と交渉。熱烈に弁を奮い、そして日本を代表する日本郵船でも出来なかった「横浜―サンフランシスコの航路権獲得」を実現。その足でイギリスに渡って、日本で初めての巨大豪華船を3隻注文し、日本丸、アメリカ丸、香港丸と名前を付けました。世界に胸を張れる素晴らしいデザインの船です。当時の日本の客船は貨物船に毛が生えた程度のものが一般的だったので、これは大きな変革でした。
 この東洋汽船の歴史は時の彼方に埋もれてしまっていますが、実は明治30年から大正末までの30年間もの間、多くの日本人や外国人の人達を運んだ会社です。大正中期になりますと、外国船の性能が上がり、10日間で太平洋を渡るのに対し、日本船は14日かかり、とても太刀打ちできない。大手船会社は大金のいる客船部門からはとっくに手を引き貨物部門だけになっていました。しかし、国家として客船がないのは恥だ。新しい優秀船を造りましょう、と国にも働きかけたのですが、そういう大役は日本郵船にお任せした方がいいという事で、日本郵船が国の補助も受け、豪華客船として造ったのが秩父丸や龍田丸などの船です。
 浅野の東洋汽船の船で有名なのは天洋丸です。「海を渡ったお人形」というお話をお聞きになった事があると思いますが、昭和2年の不況の時に、同情したアメリカの人達が援助を申し出、日本からは市松人形をお礼に、アメリカ合衆国からは約12000体の「青い目の人形」が海を渡り日本にやってきました。これを運んだことが、天洋丸最後のご奉公だったと思います。
 胸の躍る話しがたくさんありますが、石油界の開発では、エネルギー商人として浅野が大活躍しました。今、プーチン大統領がカスピ海、黒海沿岸の石油をアメリカと一緒に掘り出して、パイプラインで地中海の方に運ぼうなんて、さすがプーチン大統領、すごいなと感心するのですけれども、実は100年前に同じようなことを実行したのが浅野で、黒海のバツームから石油を日本に運ぼうと計画したり、そしてまた別に越後の石油ではパイプラインを敷いて油田から精製所まで誰よりも早く合理的に石油を運ぶパイプラインの会社を創設しました。日本には石油埋蔵量が少ないことを体験からいち早く察知し、外国から原油をタンカーで運び、それを日本国内で精製することを最初に実行したのも浅野総一郎です。今では当たり前の事も、相当の勇気がなければ誰も考えつきもしませんでした。こうして、総一郎の片腕として長く働いた娘婿の白石元治郎さんは、産業には鋼管というものが必要だと、後に鋼管事業を始めたのが日本鋼管創設のいきさつです。過去の話ばかりしていてもしょうがないわけですが、浅野の事業の特徴は過去が現在に結びついていることです。
 川崎に縁が深いこととしては、今日ここへ来る時も南武線を利用して参りましたけれども、南武線も、もちろん浅野総一郎が奥多摩の石灰石を最短距離で運ぶために地元の協力も得ながら敷設計画を立てました。大正時代は長男泰治郎、次男良三も手伝い、沿線に多くの企業を誘致しました。実際の経営にも手腕を奮いましたが、戦時体制に入り、国営化されてしまったということです。
 そしてもう一つ、京浜工業地帯埋め立ての時、浅野総一郎は60歳でした。今なら定年だなどといっている年齢ですが、かれは老いということを知らず、安田善次郎と鶴見沖の何もない海を前にして大きな男の夢を描きました。最近老人力ということが言われますが、老人力というのは経験もありますし、人脈もあり、それから失敗による学習体験もあって、力を持っているわけです。京浜工業地帯に根ざし、発展した事業は数知れず、日産自動車もそうですし、昭和電工とか、日石、昭和シェル、ゼネラルなどの石油コンビナート、東京ガスと挙げれば切りがありません。けれど、最近は日本をリードしてきた会社が統合などによって現実にその姿を消しつつあります。それとともに、浅野が明治・大正・昭和初期から末まで果した役割も忘れがちですが、「日本近代化史」との観点からは永遠不滅の評価が残るでしょう。
 ところで、人生はみな、最盛期をピークとした放物線を描いていると思います。凡人は小さい放物線ですけれども、歴史に残る人は大きな放物線を描きます。浅野総一郎は83歳で生涯を終えますが、83歳で亡くなった時もその放物線は続き、じゃあ浅野たちが描いた放物線の頂点はどこかというと、戦争もありましたけれども、昭和39年の東京オリンピック、神武景気と言われたバブル以前の本当の好景気、あの辺りが明治の先人達が描いた放物線の頂点であって、その後はバブルという泡を潜り、静かに統合などで消えつつあります。
 テレビを点けますと、官民の癒着とか、ダムがいいか悪いかが議論されていますが、本当に驚きます。浅野総一郎がした埋め立てやダムは100年近くも昔です。100年も昔に実行したことが余りにうまくいった為に、今でも同じことしか考えつかない、これはちょっと驚きです。それから自然破壊だと浅野総一郎の推進した事業を否定するのは見当違いです。では今、浅野に一体何を学ぼうかという事で、やっぱり時代の新しい価値観が重要です。次の時代を造る大きな放物線を描くための価値観を産み育てる時期ではないかと思います。浅野に見習うのはダム造りなどの具体例ではなく、「時代に即した情報をキャッチして分析していく力」を見習うべきだと思います。
 世間では「七転び八起き」とよく言われますけれども、それでは足りない。浅野総一郎のモットーは「九転十起」です。この不況で自殺している人が何万人といます。もう駄目かなと思った時にこそ、九転十起でもう一回起き上がることが大切。
 浅野のもう一つのモットーは [努力と度胸]です。度胸をもって、いざというときには自分の意見を言っていくことを、特に若い方は学ぶべきではないかしら、と思います。強い意志が生まれるのは綿密な下準備に支えられてこそと思います。
 急いでざっと話を致しましても尽きない内容がありまして、卑近な例を言いますと、川崎市はゴミの収集の回数が多く、主婦としては有り難いのです。川崎には企業が多くて納める税金が多かったために財政が潤い、その余得で今まではいい話が多かったのですけれど、バブルの崩壊、企業の倒産などの事態で、もうそのような特典は無くなってきました。しかし今こそ浅野の精神、「現状を分析して大きな放物線を描く」ことを見て、男らしい男の人達が若い人の中に増えて欲しい。また年配者の人達は老人力をどんどん活躍していただきたいと思います。今は非常に難しい時ですけれども、あと1年半もすればいい時代になるのではないかなと思って、今日のお話を終えさせていただきます。どうもありがとうございました。
(川崎ロータリクラブ 宅話集 川崎の歴史シリーズ 「温故知新」より)

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