第45号
 「ともに生きる」飯塚正良の十五年
◆川崎の海よよみがえれ
生命をはぐくむ大師の海の創造
−シビルポートアイランド(市民の島)の実現に向けて−

●川崎海の歴史保存会の設立まで
 市役所の大先輩で、中原区長を歴任された倉形泰造さん。戦前からその時代には珍しい写真機をもって、歴史のひとコマひとコマを記録された方である。
 私が市議に初当選したばかりの1991年頃、大師駅前に市民館分館ができることになり、住民説明会が開かれた。その席上、倉形さんは凛とした声で「今、大師ののり師たちが使った道具が家の建て替えなどで廃棄されようとしている。ぜひ市民館の一角に保存スペースを作って欲しい」という要望を述べられた。しかし当時、市の担当者は、「残念ながら限られたスペースで無理です」とすげなく答えただけだった。
 その後だいぶたってから、倉形さんが戦前から戦中・戦後にわたって撮り続けてきた大師地区を中心にした貴重な写真展が川崎図書館で開かれた。この会場で倉形さんは元のり師で漁協の組合長を務めた斉藤金作さんと出会うことになる。二人は意気投合して、ぜひ川崎の海の歴史を保存する「郷土資料館」を作ろうという話で盛り上った。
斉藤さんには、28年前に解散した川崎漁協の組合員の仲間がいた。それに、この話に共鳴した元港務所長だった横森昭吉さんが加わった。横森さんは、マリエンを始めとしたシビルポートアイランド(市民の島)構想づくりに参加された方である。
 この三人を囲むように元のり師の「大風」布川進さん、「キ」松原藤雄さん、「庄八」石渡五郎さん、「山一」須山茂吉・四郎さん、「平」佐々木絹子さん、「市」長島八重子さんたち、江戸の頃から代々続いた大師ののりの伝承者たちが集まってくる。それぞれの名前にある「」書きは、のり船の名前である。そして川崎漁協でただ一人、現役で活躍している長八丸の渡辺光一さんも仲間に加わった。渡辺さんは元のり師の中では最年少である。こうした方たちを核としながら、郷土資料館構想は徐々に現実のものとなってきた。
 この頃、私の兄の友人で記録映画に携わる神領勝男さんから「東京湾海洋研究会」を紹介された。この会は、学者、ダイバー、市民で構成され、東京湾に残された貴重な生態系を調査し、守っていこうとする志の高い自然保護団体である。研究会は、川崎の海を取り戻す取り組みに快く賛同していただき、事務局長の安元順さんがメンバーに加わった。
 斉藤さんたちは、元小学校の校長先生だった小宮忠行さん、四谷小ののりづくり実習を担当された上田敏朗先生らが連れだって、千葉県の富津漁協を視察し、のりの養殖を目のあたりにしたことで意を強くした。この視察をきっかけに、いよいよ構想の実現に向け、東扇島、シビルポートアイランド計画の勉強に本腰を入れ始めることになるのである。
 そして、私を政策的に支えてくれる社団法人川崎地方自治研究センターからは、元教育長であった岩渕英之理事長がこの構想に賛同していただき、自らがメンバーに加わるとともに、ワークショップグループなどから協力をもらえることになった。
 港湾局から東扇島西緑地の整備構想の内容を聞き、東側緑地の整備については全く白紙状態であることを知った。そこで、かつて東扇島を漁場とし、すみからすみまで知る斉藤会長ら元漁師のみなさんにはかり、現地探査をして資料館構想を提案しようということになり、早速、東扇島をくまなくウオッチングすることになった。 西緑地は、対岸のJFEの資材置き場から吹いてくる鉄くずを含んだ砂塵で真っ赤になってしまう。この地は特に風波が高く、のりづくりには適さない。これに比べると、東緑地には緊急避難用の船だまりがあり、おまけにアクアライン建設のための資料館があるではないか。アクアラインの担当者によると、アクアラインが完成した後はこの建物は取り壊し、中の陳列物は「海ほたる」に移設する予定ということである。
 参加者から、この建物を使って資料館ができないかと提案があり、港湾局と交渉したが結果はボツだった。そこで考え出されたのが、マリエンの2階を海の歴史資料展示場として活用できないかという案である。マリエンの管理者である(社)川崎港振興協会の鈴木事務局長らが理解を示し、翌年5月に早々と実現することになった。なにごとも、目標の志の高さと、意気に感じる仲間づくりが大切であることをあらためて知った。
 これより前、東扇島探査を終えて、斉藤さんらの元のり師たちは、今までの願望が確信に変わっていくのを感じていたようだ。かつての大師の海を取り戻すという漠とした願望から自然発生的に生まれたこの熱い運動に、一定の目標を掲げればきっと実現できる。こうして、「海の自然公園の整備と郷土資料館『川崎の海の思いで館』を建設しよう」という2つの具体的な目標を高く掲げ、「川崎の海の歴史保存会」は1997年5月28日、15人で船出したのである。
保存会は、ただちに行動を開始した。郷土資料館「(仮称)川崎の海の思い出の館」建設に向けて、同年6月17日に高橋市長に要望書を提出した。これが後々、郷土資料館の建設にとどまらず、のり養殖の再生、人口海浜の整備という壮大な運動へ発展していくことになるはじめの一歩であった。

◇第1回のりづくり祭
 元のり師たちは、1972年に漁業権を放棄して以来28年間、片時も海のことを忘れることはなかった。四谷小学校に通う孫たちにのりづくりを伝えたい。そんな強い思いから12年間にわたって、毎年2月にのりづくりの実習を行っていた。
 「川崎の海の香りを市民に伝えたい。そのためにはのりづくりを復活させることだ」。大師の漁民がつらい時や哀しい時に、何よりもできのいいのりが採れた時はその苦労を忘れさせてくれた。そんなのりづくりをメインにした「祭」を東扇島に再現したい。こうした思いが凝縮され、98年5月の連休の3日間、マリエンで盛大に「第1回のりづくり祭」を開くに至った。
 祭の会場では、のりづくりの実習コーナーを中心に、のりそば、あさりの味噌汁など昔の大師のりの味が再現された。正面玄関の広場では地元のみなさんから盆踊りも披露された。東緑地の船だまりでは、東京湾海洋研究会のダイバーたちが海に潜って川崎の水中生物の動態を撮影し、その映像がリアルタイムでマリエンシアターで放映された。マリエンの2階には、懐かしい写真やのりづくりの道具など川崎の海の歴史資料が展示され、参加者の郷愁をさそった。玄関前には、ダイバーが潜って採集した、こんぶ、なまこ、蟹、ヒトデなどが並べられ、普段目にしたことのない生物に子どもたちは歓声を挙げていた。3日間で1万人を超す市民が参加し、「第1回のりづくり祭」は大成功のうちに終わった。
 この成功を踏まえて、「川崎の海の歴史保存会」は2つの目標をたてた。1つはNPO(特定非営利活動法人)の認証を取得することと、もう一つは海の歴史保存会を核として、その外に広がる多くの市民の力で川崎の海の再生をめざす「かわさき海の市民会議」を立ち上げることである。

◇のりづくり体験場の開設
 「川崎海の歴史保存会」は、設立の趣旨にもとづいて、のりづくりの技術を子どもたちに伝えることから出発した。99年には、一年間で川崎区内の11の小学校の児童1351人にのりづくりの歴史と技術を指導したが、そのほとんどは出張サービスだった。どうしても出張授業になると3日間はかかる。おっと多くの子どもたちに効率よく教えるために、のりづくりの拠点が欲しい。そこで、マリエンの一角にのりづくりの体験場を造り、実際に川崎の海を見ながら教えられないかと考えた。会員のみなさんは、あくまでも前向きで積極的である。
 「設置許可をいただきたい」と港湾局に要望を提出したところ、早々にマリエンの隣の敷地にプレハブの建物を建てることが認められ、「狭いながらも楽しい我が家」として、のりづくりの拠点が完成したのである。会員たちは、日本で唯一ののりづくり体験場と自負している。ちなみに2000年3月当時で、マリエン2階の展示場入場者は1万人を超え、そのうち1950人がのりづくり体験場でのりづくりを行った。大変な成果である。市民の力のすごさに脱帽したい。

◇かわさき海の市民会議も動き出す
 「川崎海の歴史保存会」が推進力・エンジンとすれば、その力を受けとめ、伝え、波及させる役割が市民会議となる。保存会は元のり師が中心であったが、市民会議は川崎の海が好きでたまらない人たちを中心にして発足した。
 学校関係者、町内会、地域活動団体、若宮八幡宮、のり問屋商業組合、生活クラブ生協、労働組合、社団法人川崎地方自治研究センターなどが賛同してメンバーに連なり、多種多彩な構成となった。2000年7月20日に開催された設立総会では、力強い総会宣言が読み上げられ、さっそく8月から川崎の海づくりに向けた提言づくりの「海の公園づくりワークショップ」が始まった。ワークショップは10月まで4回開催され、11月にはワークショップに参加した子どもたちから当時の高橋市長への報告会が行われた。ワークショップの成果品として、ミニジオラマとして手づくり模型が作成され、市長にも見ていただき、東緑地整備のイメージが膨らんだ。

かわさき・新海開き宣言
 川崎市川崎区の工場地帯の地先に広がる川崎の海は、かつては「大師の海」といわれた、生命のにぎわい豊かな遠浅の海でした。人の生業は海とともにあり、その海の幸の豊かさは人々の暮らしを支え続けていました。そうした海は、海の汚れや大規模な埋め立て、工場立地によって生活から遠ざかり、人々の記憶から消え去りつつあります。 (中略)
 失われつつある川崎の海の記憶を紡ぎなおし、かつて私たちの暮らしとともにあった海が合わせ持っていたさまざまな意味を考え直すための場として、「かわさき・海の市民会議」の結成を呼びかけることとしました。この会議は百年以上もの間、市民の心と生活に豊かさと思い出を残した川崎の海の歴史、文化、伝統を後世に伝えるための郷土資料館と潮風に誘われ、健康的な海の自然公園の早期実現のため、川崎の海に関わりのある各界各層に広く参加を呼びかけて構成し、海と人との関わり方を多角的な視点から議論し、海業に関する歴史的資料の収集と展示、隣接する海の環境保全、復元の手法・水辺を生かしたまちづくり等、いくつかの課題についての報告と提言をまとめたいと思います。
右宣言する

 こうした「海の歴史保存会」設立に至る経過を、私は『川崎評論』という雑誌に寄稿した。1999年9月15日、若宮八幡宮の前宮司中村博彦さんから依頼されてのことであった。しかし、そのすぐの9月25日、中村さんの訃報を知った。中村さんは私にとっては短いおつき合いだったが、会うたびに鮮烈な印象を受け、的確なアドバイスを与えていただいた。思い出深い出来事がいくつもある。
 1990年には、「殿町の水神様の聖母観音像が、かくれキリシタンのマリア像であることを立証したいので、協力して欲しい」といわれ、以前、殿町の片倉さんのお宅を訪問した折り、物置に踏み絵と思われるキリストの絵があったことを思い出した。そのことを宮司に伝えると、早速、市民ミュージアムの高橋研究員をともない調査してみたが、残念ながら、三河の国の宗門人別帳と乃木将軍の揮毫しか発見できず、聖母観音とマリア像が一致していることは立証できなかった。
 1998年には、大師河原の根本造船所から連絡があり、「木造船の解体を依頼されたが、もし保存できるものなら保存したいのだが」といわれ、宮司と同行し、現物を見せていただいた。当時の市港湾局長青木茂夫さんに直談判してわざわざ造船所まで足を運んで見ていただいたが、検討の結果、これも残念なことだが保存することはかなわなかった。
 ひとつだけ成就できたのは、東扇島のマリエン2階の喫茶店が休店し、空き店舗になっていたところを、港湾局のご理解をいただいて、「川崎の海の歴史保存会」の郷土資料コーナーとして利用できるようになったことだ。その中で往時の庶民の民具としてかじ屋の道具を展示していただいた。それは、今でも資料コーナーの一角に中村さんの魂と一緒に飾られている。
 私は『川崎評論』のむすびにこう書いた。「川崎の漁民が権利を放棄して28年が経とうとしている。すでに物故者となられた人も多い。時間もない。今こそ市民の皆さまに事情をご理解いただき、大師の海を取り戻したいと考えている。そのことは必ずや故中村博彦宮司が喜んでくれると思う」。

●出会い、つむぎあって一歩ずつ
 幾重にも重なり合う出会いとつながりのなかで、川崎の海の歴史保存会の活動は充実し力強いものとなっていった。その中でも、地元の人たちの理解に支えられながら、毎年5月の連休時に「のりづくり祭」が開催されてきたことが特筆される。2004年の「第7回のりづくり祭」では、ミニ水族館に飼育されている川崎の海で採れた石鯛、黒鯛、うまづら、ウナギなどを興味深そうに見学していた阿部市長に、斉藤金作会長が「東扇島東公園の整備の中に、のり体験場の施設を作ってもらいたい」と要望し、市長も「前向きに検討したい」と答える一幕もあった。
2004年6月、川崎市港湾局は記者発表を行い、懸案だった東扇島東緑地16ヘクタールの平常時の利用策を明らかにした。新聞報道によると、「平成19年度に人工砂浜が完成することが決まった。東扇島の東緑地公園(15.8ヘクタール)に国が整備する広域防災拠点の基本計画が今月初めに策定されたため」としている。
 東緑地はもともと市が独自に整備する計画があり、2001年から港湾局主催でワークショップが行われ、東大島小の生徒たちなど50人に及ぶ市民が市民利用案を練り上げてきた。その後、2002年夏に、この地が国の広域防災拠点に指定されたため、改めて国に対して市民プランを提案し検討が加えられたものであった。
 「川崎の海の歴史保存会」が設立されてから10年、「蘇れ、川崎の海」を合言葉に、人工海浜とのり養殖の技術の歴史を伝えるファミリー館の建設を訴えてきたものが大きく前進し、夢であったと思われた構想の半分が実現することになったのである。
 この年の7月、東扇島のマリエンは四谷小学校・大師小学校の子どもたちの声でにぎわっていた。その前年から始められた川崎の海の歴史保存会の「実験採捕事業」で、東京湾の海の生物の生育状況を調査するというものである。
 7月23日に川崎港岸壁を中心に弓張網を仕掛け、翌24日の午前7時に集合した。仕掛けた網には残念ながら大きな獲物は入らなかったが、ワタリガニが2〜3匹、ナマコは豊漁、メバル・メゴチなど魚が10匹程度掛かっていた。
釣り人に聞くと今日はひどい不漁とのこと。子どもたちや保護者、引率の先生も含めて集まった40人ほどは、不漁にちょっぴり不満顔だった。それでも子どもたちは気持ち悪そうにナマコを手にとって、興味深く見つめている。この後、冷凍したのりを戻して1人2枚づつのりつけを体験し、元気な声がマリエンに響きわたっていた。
 夢に向かって着実に歩み続けていた頃、飯塚正良後援会宛てに一通の封書が届いた。2004年8月のことである。「飯塚まさよしほっとらいんニュース」に掲載した東扇島人工海浜の記事を読み、これに対する思いが綴られたものだった。読んだ後に、熱くこみあげるものを感じた。

飯塚正良後援会事務局の皆様方へ
 毎日の暑さの中、いつもいろいろ情報誌を送っていただき有難うございます。今どのようなご活躍、動きなのか、活字を通して隈なく読ませて頂いております。
私事病も癒え、催しに足を運びたい思いなのですが、体力がつけばとの思いで今仕事に籍を置いております。故、気持ちと行動が伴わずという状況ですが、陰ながらご活躍を祈っております。
 私事の余談で大変恐縮ですが、昭和58年に当時ロッキード田中判決選挙ともいわれる総選挙が行われました。今回の参議院選挙について県下の有権者はどう受け止めているか、政治家に対し何を求めるか、以下私の注文です。
 その時、新聞紙面に掲載された文面を思い出して、政治は清潔で公平であるべきです。特定の地域だけが潤う政治でなく、日本全体を対象とした政治を望みたい。とかく選挙後は有権者の声は反映されないものだが改めて欲しい。川崎について言えば、横浜と東京の谷間で人口の流れが激しいので歯止めをかける施策を望みたい。
 あれから20年の歳月が流れ、企業も変化をもたらし、川崎の街並みも大きく動き、中でも「川崎の海の歴史保存会」を設立。「蘇れ、川崎の海」まさに夢が現実の足音となり、東扇島人工砂浜が平成19年度に完成されることを知り、飯塚先生をはじめ、陰でご尽力下された方々に今は亡き主人共々、ここまでの月日の道程に感謝の念でいっぱいな思いです。
 元気でいたら、語った日々に目は輝いていたと思います。これからいろいろな課題、問題を抱えての中、有権者の声を反映され、東京・横浜の谷間でない、住みやすく動きのある川崎の街や町、ますますの躍進ある川崎に願いを込めて・・・。
 暑さの中お体には気をつけて頑張っていただきたく、紙面でおしゃべりさせていただきました。情報誌有難うございます。
 皆々様へ
鋼管通 S・S

 2004年11月23日、新のりがあがった。「川崎の海の歴史保存会」の正月ともいえる。のりは寒の時期の季節労働である。木枯らしが吹き始める頃から、春一番が吹くまでの約5カ月が勝負である。この日は20人の会員が集まって、この年の初めてののりづけを行った。
 斉藤理事長によれば、「今年ののりはあまりできがよくない。夏が暑かったせいか、海水温度が高すぎたかもしれない」とのこと。自然の動きに左右される伝統的な生業を考えると、地球環境の保全にも心が向くようになる。
 のりづけをして、のり干しを終えてから餅つきを行った。皆さん元漁師だけあって、しきたりにこだわる。のり養殖が全盛期だった頃、一番のりがあがる日は餅つきでこれからの豊漁を祝ったそうである。11月23日は、暦では新嘗祭。五穀豊穣に感謝することから今は勤労感謝の日となっている。
 東扇島海浜公園は、「川崎の海の歴史保存会」が中心となって、川崎市、国土交通省に陳情して実が結んだ。東扇島の東緑地16ヘクタールが対象エリア、後楽園ドーム4個分の広さとなっている。ここに川崎市では初めての人工海浜が造られる。まもなく着工され、2007年には完成の予定だ。当初計画の0・9ヘクタールは3・2ヘクタールへと予定が拡張された。国土交通省に直訴したりしながら、動き回った「海の歴史保存会」のみなさんには頭が下がる思いであった。干潟のそばで新のりができ上がる風景を期待し、のりの豊漁を祈った。
 年が明けて2005年1月22日、ミューザ川崎シンフォニーホールに900人が集まっていた。「川崎の海辺に潤いと安心を求めて」と題するフォーラムが開かれたのである。川崎市民待望の海浜公園の着工式が行われるが、これに先立って川崎市と国土交通省の共催で行われたフォーラムで、作家の立松和平さんが記念講演に来てくれた。
 ちなみに立松和平さんは、群馬生まれで私の同郷である。私の兄の古くからの友人で、兄が昨年作った記録映画「菅江真澄の旅」全4巻120のナレーターを務めていただいた縁があった。前年の暮、川崎海辺のフォーラムの開催に向けて、「どなたか記念講演者を探して欲しい」と川崎市港湾局より依頼され、兄を通じて、立松さんに海辺フォーラムへの講師をお願いしたところ、快諾をいただいたのである。
 初対面であったが、大変気さくな方で港にも明るい。早稲田大学を卒業後、宇都宮市役所に勤務、その後文筆活動に入るが、今でも足尾鉱毒事件は立松氏のライフワークであるとのこと。栃木弁なまりが抜けないのも懐かしい。
 氏は絶えず環境と生きるものの共生を追求してきている。不毛の足尾鉱山のはげ山に植林を始めて10年、いかに人間の営みとはわずかなものか。「貧者の一灯」という仏教の言葉があるが、生きとし生けるものが共生する環境を取り戻すことは、すなわち「貧者の一灯」に他ならないという。まさに海辺の公園もその一灯となる。この語りは、この日フォーラムに参加した方々に強い感動を与えた。立松さんは心からのエールを今回のイベントに送っていただいた。感謝、感謝である。

 2005年4月に開かれた第8回のりづくり祭も大盛況だった。川崎海の歴史保存会の設立10周年という節目の年ともなり、天候にも恵まれて、大勢の人出でにぎわった。前年の11月から始まったその年ののりつけ体験講習会は15回開かれ、延べ2000人を超す市民が参加した。人工海浜の整備も着工され、完成が待たれる。80年の想いが実現するまであと一息だ。多摩川の真水と東京湾の塩水が入り混じるこの地は豊饒な海として、のりはもちろん、あさり・はまぐりの漁場となるはずだ。「人工海浜完成までがんばろう」とあらためて誓いあった。

●ほおじろざめがやってきた
 2006年の第9回のりづくり祭は、4月29日から開かれた。松沢県知事も来賓として初めて訪れていただき、「川崎の海がきれいになっている。その現れが多摩川の『タマちゃん』であり、今日初めて公開されるホオジロザメの展示なども着実に東京湾はきれいになっている証明である」と述べた。また、「昨年は神奈川県は全国『海づくり大会』の主催県として“海洋神奈川”を全国に発信した。その際、『川崎の海の歴史保存会』のみなさんにのりつけ体験コーナーを受け持っていただき、特に全国から来られたお客様に大師海苔の健在ぶりをアピールしてもらった。」と激励してくれた。
 開会式では、主催者の川崎の海の歴史保存会斉藤理事長が、「今年はホオジロザメという追い風が吹いてきた。1月に市長に会った際、マリエンでホオジロザメの展示を始めるから協力してもらいたいと言われた。後継者難で祭の開催をどうしようかと迷っていたが、思い切って開催を決断した。来年度中には川崎に海の公園ができ上がる。そこには、3・2ヘクタールの人工の渚が実現する。子どもたちに海のすばらしさを伝えたい」と力強く述べた。
市長から祝辞をいただくとともに、長年にわたってのりづくり体験に従事してきた佐々木絹子さんをはじめ13人に感謝状が手渡された。四谷小学校「海の探検隊」の高橋さん、加藤さん、西村さんがのりづくりの感想文を発表した。この子どもたちが大きくなる頃、川崎の海はどうなっているのか、大人たちの責任は重大である。
 今年の祭では、ホオジロザメの剥製(ハクセイ)完成記念式典が行われた。ホオジロザメが京浜運河に漂流していたことは、一躍川崎の港を有名にした。当初川崎市はこのホオジロザメを歯とあごの一部分を剥製にして、あとは焼却処分にする方向で検討していた。ところが神奈川県立生命の星・地球博物館に問合せたところ、全長4・81メートルは世界最大級であり、これだけの大きさの標本は他の博物館にもなく、ホオジロザメの進化を研究する上で貴重であるという助言もあり、急遽全体を剥製化して保存しようということになり、専門家に見積もってもらった。500万はかかるということだったが、実際は360万円でやっていただいたらしい。しかし、良くできている。
 研究員に伺うと、メスのホオジロザメで世界最大級は5メートル10センチがいるそうだが、川崎港に漂着したホオジロザメ、名前はまだないが、間違いなくオスでは世界最大級といえるものらしい。歯が独特である。上あごに4枚の歯、下あごに2枚の歯がびっしりと並んでいる。1回噛めば二度と口外へは出さない仕組みになっているそうだ。とらぬホオジロザメの皮算用ではないが、この日の来客者数は1万2千人だったという。初日は午後からあいにくの嵐になってしまったが、さすがにサメ人気はすごい。
 二日目は快晴で、朝から気温も上がり、この日マリエンの来館者は1万8千人となった。駐車場を利用した踊りの広場では午前中から大師地区町会婦人部有志による手踊り、大師一輪車クラブの一輪車演技、川崎いちょう連による阿波踊りと続く。合間にかっとび太鼓の和太鼓とにぎやかに終日演技演舞が繰り広げられた。
 のりづけ体験コーナーでは、手際よくのりづくりが行われる。午後3時には乾燥したのりが出来上がり、体験した人に海苔が配られ、自分が作ったのりをもらって思わずにっこり。
 来年は祭も10周年になる。来秋には人工の渚が完成する。いつも5月の連休の緑の日に開催してきたが時期と場所を検討する必要があるかもしれない。
 ところで、開会式で市長からのりづけ体験を市民に広めた功績ある方に感謝状が贈られたが、当日は時間もなかったことから、2日目にあらためて17名の授与者一人づつに感謝状を手渡すことになった。私が市長になり代わって感謝状を読み上げて手渡した。私は「今日の感謝状の授与式は終わりではない。来年の「海の公園」の供用開始に向けた第一歩のしるしと受けとめていただきたい。ホオジロザメという宝船がやってきた。感謝状は132万川崎市民の心からのお礼である」と述べた。
 川崎の海の歴史保存会は高齢化に頭を悩ましている。後継者不足だと、斉藤会長はつぶやいた。これまでの活動が着実に成果を上げてきているが、保存会にとっては、これからが新たな正念場かもしれない。

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