大師の海を甦らせるために
――シビルポートアイランド(市民の島)の実現に向けて――

飯塚 正良             
故・中村博彦宮司に捧ぐ

 この文章は、1999年9月15日、若宮八幡宮の前宮司中村博彦さんから依頼された。この日、マリエン(川崎市港湾振興会館)で「川崎海の歴史保存会」の例会が開催された。その折り、「川崎評論」で大師の海をテーマに特集を組みたいので、「川崎海の歴史保存会」を客観的にコメントして欲しい。私(飯塚)がうってつけだという。そして、9月25日、中村さんの訃報を知った。私にとっては短いおつき合いだったが、そのつど鮮烈な印象とアドバイスを与えていただいた。
 10年前、殿町の水神様の聖母観音像が、かくれキリシタンのマリア像であることを立証したいので、協力して欲しいと言われ、かつて殿町の片倉さんを訪問した折り、物置に踏み絵と思われるキリストの絵があることを思い出し、宮司に伝えると、早速、市民ミュージアムの高橋研究員と家捜しに及んだ。残念ながら、三河の国の宗門人別帳と乃木将軍の揮毫しか発見できず、聖母観音とマリア像が一致していることを立証できなかった。昨年、大師河原の根本造船所より連絡があり、「木造船の解体を依頼されたが、もし保存できるものなら」と言われ、宮司と同行、現物を見せていただいた。当時の市港湾局長青木茂夫さんに直談判、局長にはわざわざ造船所まで足を運んでいただいたが、検討の結果、保存することはかなわなかった。ひとつだけ成就できたのは、東扇島のマリエン2階の喫茶店が休店し、空き店舗になっていたところを、港湾局のご理解をいただいて、「川崎海の歴史保存会」の郷土資料コーナーができたことだ。庶民の民具の歴史がひとめでわかるように、かじ屋の道具を展示していただいた。今でも、一角に中村さんの魂と一緒に飾られている。
<川崎海の歴史保存会の設立まで>
 私の市役所の大先輩で、中原区長を歴任された倉形泰造さん。戦前からその時代には珍しく写真機をもって、歴史のひとコマひとコマを記録された方である。私が市議に初当選したばかりの頃、大師駅前に市民館分館ができることになり、住民説明会が開かれた。リンとした声で、「今、大師ののり師たちが使った道具が家の建て替えなどで廃棄されようとしている。ぜひ市民館の一角に保存スペースを作って欲しい。」という要望を述べられた。市の担当者は、残念ながら限られたスペースで無理、との答えであった。
 それから月日が流れ、倉形さんの戦前・戦中・戦後の大師を中心にした、貴重な写真展が川崎図書館でひらかれた。ここで大師の元のり師の組合長斉藤金作さんが出会うことになる。二人は意気投合して、ぜひ川崎の海の歴史を保存する郷土資料館を作ろうという話になる。
 斉藤さんの後には、28年前に解散した川崎漁協の組合員がいる。そして、この話に共鳴した元港務所長だった横森昭吉さんが加わった。マリエンを含めたシビルポートアイランド構想づくりにも参加された方である。この3人を取り囲むように元のり師たち「大風」布川進さん、「キ」松原藤雄さん、「庄八」石渡五郎さん、「山一」須山茂吉・四郎さん、「平」佐々木絹子さん、「市」長島八重子さん。
 江戸の頃から代々続いた大師ののりの伝承者たちが集まってくる。川崎漁協唯一人の現役、長八丸の渡辺光一さん、この人は元のり師の中では最年少である。こうした方たちを核としながら一回り二回りと成長していく。この頃、私の兄の友人で記録映画に携わる神領勝男さんより「東京湾海洋研究会」の存在を知る。学者、ダイバー、市民で構成する自然保護団体である。もちろん川崎の海をとりもどす取り組みに賛同していただき、事務局長の安元順さんにも加わっていただく。
 さらに元小学校の校長先生だった小宮忠行さん、四谷小ののりづくり実習を担当された上田先生らが連れだって、富津漁協を訪問する。文字どおり呉越同舟状態で船出をする。この時の訪問でのりの養殖を目のあたりにすることになる。そして、いよいよ、このメンバーで、東扇島、シビルポートアイランド計画を勉強する。
 担当者から、特にこれから着手する西緑地の整備構想の中味、東緑地については全く白紙状態という説明を聞く。ならば、東扇島をかつての漁場としてすみからすみまで知る斉藤会長ら元漁師の皆さん、現地探査をして結論を出そうと衆議一決。早速、東扇島をくまなくウオッチングする。
 西緑地は、対岸の資材置き場から吹いてくる、鉄くずを含んだ砂塵で真っ赤になってしまう。この地は特に風波が高い。したがって適さない。これに比べると、東緑地には手頃な船だまりがあり、おまけに、アクアライン建設のための資料館があるではないか。アクアラインの担当者に聞くと、アクアラインが完成すると、この建物はとりこわし、中の陳列物は、「海ほたる」に移設する予定とのこと。参加者から、この建物を使って資料館ができないかと提案があった。港湾局と交渉した結果、ボツとなった。そこで発案されたのが、マリエンの2階を海の歴史資料展示場として活用できないかという案である。マリエンの管理者である(社)川崎港振興協会の鈴木事務局長らの理解もあり、翌年5月、実現することになる。
 話はちとさかのぼるが、東扇島探査を終えて、斉藤さんらの元のり師たちは、今までの願望が確信に変わっていくのを感じていた。自然発生的に生まれたこの運動に、一定の目標を設定しよう。かつての大師の海をとりもどすという漠とした願望から、海の自然公園の整備と郷土資料館「川崎の海の思いで館」を建設しようという具体的な2つの目標を高く掲げ、川崎の海の歴史保存会は15人で出発した。そして直ちに行動を開始した。まず高橋市長に郷土資料館「(仮称)川崎の海の思い出の館」建設に向けて、要望書を1997年6月17日、提出した。

要望書(抄)
「川崎の海の思い出の館」建設について
 (前略)
 かつて川崎の海は自然条件に恵まれ、東京湾唯一の品質の良い生産品を誇り、長い間市民に新鮮で栄養豊富な海の幸を供給しておりました。大師で生まれ育った私たちは、自らの体験を生かし、衆知を集めた貴重な文化遺産を保存し、後世に伝える事によりこれからの世代を担う若人達に失われつつある郷土愛を呼び戻す事が今、必要ではないかと考えます。
 (中略)
 以上の理由により、郷土資料館及び関係諸施設を「川崎漁協ゆかりの地」である東扇島の一角に建設し、伝統ある歴史文化にめぐり会い、自然を生かした心和む思いの場が望まれるとこでございます。川崎市長におかれましては、特段のご配慮を賜りたく、ここに要望申し上げます。

<第1回のりづくり祭>
 元のり師たちは、1972年に漁業権を放棄して以来28年間、片時も海のことは忘れなかった。
 四谷小に通う孫たちにのりづくりを伝えたい。そんな思いから、12年間、毎年2月にのりづくり実習を行ってきた。川崎の海の香りを市民に伝えたい。その為には、のりづくりをメインテーマに。そして、大師の漁民が辛いとき、哀しいとき、そして何よりも、できのいいのりがとれ、その苦労を忘れさせてくれた「まつり」を東扇島に再現したい。この2つの思いが一点に凝縮されていった。1998年5月3・4・5の3日間、盛大に「第1回のりづくり祭」が開催された。のりづくりの実習コーナーを中心にのりそば、あさりのみそ汁、昔の大師の味を再現してもらった。正面玄関の広場には、大師のきれいどころに盆おどりを踊っていただいた。東緑地船だまりには、東京湾海洋研究会の仲間のダイバーが潜り、川崎の水中生物の動態がリアルタイムで、マリエンシアターで放映された。
 マリエン2階には、海の歴史資料展示場が開設され、その前には、船だまりでダイバーが潜って採集したこんぶ、なまこ、カニ、ヒトデなど、普段は目にしたことのない海中生物にこどもたちは、歓声を上げていた。3日間で1万人を超す市民の参加をえて、「第1回のりづくり祭」は成功した。この成功を踏まえて、川崎の海の歴史保存会は2つのことを目指す。1つはNPO(特定非営利法人)の認証を目標とする。2つは、海の歴史保存会を核として、その外に広がる市民の海としての川崎海の市民会議を立ち上げることであった。
<のりづくり体験場の開設>
 「川崎の海の歴史保存会」は、設立の趣旨にのっとり、のりづくりの技術を子々孫々に伝えることから出発した。昨年1年間で川崎区内11校の小学校の生徒さん1351人を指導、そのほとんどは出張サービス。どうしても出張授業になると3日間はとられてしまう。そこで考え出されたのが、マリエンの一角にのりづくり体験場の設置。設置許可をいただきたいとの要望を港湾局に上げ、おかげ様で、「狭いながらも楽しい我が家」がマリエンの隣に完成した。日本全国広しといえども、日本唯一ののりづくり体験場と自負している。因みに、本年3月末現在、マリエン2階展示場入場者計1万20人、そのうちのりづくり体験場1950人となっている。川崎市もマリエンの裏手中公園を整備、バーベキュー場も設置された。できれば、こうした施設利用者が回遊性もってマリエン2階資料展示場、1階隣接ののりづくり体験場に来場していただきたいと思っている。
<川崎海の市民会議スタート>
 「川崎海の歴史保存会」が推進力、エンジンとすれば、その力を全面で受けとめ、伝え、波及させる海としての役目が市民会議である。歴史保存会は、元のり師だった方を中心に、市民会議は、海が好きでたまらない人を中心に発足した。そして、7月20日の発足会より早速、川崎海の提言づくりに向けたワークショップが始まった。
 「かわさき・新海開き宣言」川崎市川崎区の工場地帯の地先に広がる川崎の海は、かつては「大師の海」といわれた生命の賑わい豊かな遠浅の海でした。人の生業は海とともにあり、その海の幸の豊かさは人々の暮らしを支え続けていました。そうした海は、海の汚れや大規模な埋め立てや工場立地によって生活から遠ざかり、人々の記憶から消え去りつつあります。   (中略)失われつつある川崎の海の記憶を紡ぎ直し、かつて私達の暮らしとともにあった海が合わせ持っていた様々な意味を考え直すための場として「かわさき・海の市民会議」の結成を呼びかけることとしました。この会議は百年以上もの間、市民の心と生活に豊かさと思い出を残した川崎の海の歴史文化、伝統を後世に伝えるための郷土資料館と潮風に誘われ、健康的な海の自然公園の早期実現のため、川崎の海に関わりのある各界各層に広く参加を呼びかけてこの会議を構成し、海と人との関わり方を多角的な視点から議論し、海業に関する歴史的資料の収集と展示、隣接する海の環境保全、復元の手法・水辺を生かしたまちづくり等、いくつかの課題についての報告と提言をまとめたいと思います。右宣言する。2000年7月20日「かわさき・海の市民会議」設立総会参加者一同
<むすび>
 川崎の漁民が権利を放棄して、28年がたとうとしている。すでに物故者となられた人も多い。時間もない。今こそ市民の皆さまに、事情をご理解いただき大師の海を取り戻したいと考えている。必ずや故中村博彦宮司が喜んでくれると思う。合掌。

川崎評論 VOL.14より抜粋

川崎評論  発行/川崎区文化協会  年2回発行  戻る