飯塚正良葬儀の日、神奈川新聞の朝刊に記事が載りました
国会点描
かながわの風
特別編集委員 有吉 敏
―飯塚市議の遺志継げ―
川崎市議の飯塚正良さんが亡くなった。
出会いは1993年、中選挙区制で最後の総選挙。同市を含む旧神奈川2区で旧社会党の岩垂寿喜男氏の陣営にいた。同氏は「左派」と位置付けられ一部労組から推薦を外されていた。当時は「選別推薦」と報じられたが、飯塚さんは「選別ではなく差別だ」と公言。「小異で身内を排除するなんてあり得ない。政権交代は果たせない」とつきっきりで岩垂氏を応援した。
しかし、どんなに憤りはあっても声を荒らげたりせず常に穏やかな人だった。立場や意見が異なる相手の話にも耳を傾け、議論をかわした。そんな姿勢が保守や革新といった枠を超えて人脈を広げたのだ。国会にも参考人として呼ばれ、国籍条項の撤廃を訴えるなど活躍の場も広かった。
岩垂氏は当選を果たした後に環境庁長官(当時)に就任する。ほどなく選別をくらった労組の関係者の面接を受けたのに驚いた。大臣本人に理由を問うと「だって飯塚くんからの頼みだもの」との答え。人の良さも人一倍だった。
そんな温厚な飯塚さんだが、地元などで繰り返されるヘイトスピーチには怒っていた。誰よりも「言論の自由」「政治活動の自由」を重んじていたが、ヘイトに対しては「同じ土俵にのせる話ではない」と明言していた。ある時、右翼を名乗る男性から「ヘイト批判に文句がある」と抗議を受けたそうだ。いわく「ヘイトを極右と呼ぶな。右翼は弱い者をたたかない。連中は差別を極める『極差』だ」と。
「個人の感想とはいえ、ヘイトが左にも右にも誰にも支持されないのは紛れもない事実と感じた」と意を強くしていた様子を思い出す。
穏やかな人ほど怒ると怖い。そんな飯塚市議の遺志が受け継がれてほしいと願う。
※2022年6月12日の神奈川新聞より引用させていただきました。