川崎評論① 114年ぶりに甦る伝十郎桃

114年ぶりに甦える伝十郎桃

―はじめに―

川崎区大島に大島八幡神社があります。村の鎮守として元日の初詣には千人をこす善男善女が訪れます。その本殿の前に「温故知新」の碑が建立されています。この碑文によれば明治元年より、洋桃が輸入されるや大島村では競って栽培を試みたが成功しなかった。ところが明治29年吉沢寅之助氏が30有余種を交配し、1品種を発見し、先代傅十郎の一字を冠し、これを「傅桃」と命名した。これが大島村の地味に適し、栽培法が容易と見え、栽培者が激増し、市場における名声がとどろく。大正3年皇太子殿下に献納する栄誉をいただいたことを記念し、植桃以来の沿革を録したと記されています。

114年前、幾多の苦難の末、発見した「伝桃」がその後改良を重ね「橘早生」となり、さらに「白桃」・「白鳳」そして今日の福島名産となった「あかつき」・「ゆうぞら」へと改良進化されたことを地元の郷土史研究者小泉茂三氏は記しています。このことを、2年前たまたま川崎市を来訪された瀬戸孝則福島市長にお話したところ、大変興味を示され、ぜひ甦った伝十郎桃と改良を重ねた福島桃を食べ比べしてみようということになりました。

6月定例市議会で私は114年ぶりに甦える「伝十郎桃」について、阿部市長、金井教育長、小泉経済局長それぞれに質問しました。

 

温故知新の碑

100808_083852_01

温古知新の碑

富嶽の高き大洋の深き我然成立すろものにあらず必ず幺々の砂涓々の流を積て而して後始めて然り嗚呼小を積て大を成すの功見るべし維人に於て亦然り抑本村は京濱の間に介在し古来梨樹の栽培盛なりしが明治の初年洋桃の輸入せらるるや競ふて栽培を試みしも皆成功せざりき同廿九年吉澤寅之助氏三十有餘種を蒐め栽培せらしより二三熱心家も有望種の撰擇に従事せられたり適吉澤氏一品種を発見したるを以て先考傳十郎の一字を冠し之を傳桃と命名せらる然り而して此桃たるや吉澤氏苦心の賜にして其光澤其風味共に佳良且地味に適し栽培方容易なり従て栽培者激増し市場における名聲嘖々として本村亦本場と目せらるるに至れり大正三年石原知縣畏くも 皇太子殿下へ献納せられしに引続き嘉納の光栄を得たり是啻に本村の光栄たるのみならず亦以て日本園藝界を飾るの功績を有し全国に渉り桃の良種は傳桃の支配す所とならんとする今や果樹業の発達は即ち桃の良種に俟たざる可らず良果の産出は則ち病蟲害駆除予防に基す大正二年時勢の新運の鑑み果物同業者組合を組織し栽培上の改良病蟲害駆除予防の励行輸送方法の改善等を図り馬車輸送を開始したるに生産箱数数拾餘萬を算するに至れり蓋し此盛況を得しは畢竟組合員の一致協力並に輸送法の宜しきを得たるに因ると雖も就中傳桃の憂良種なるに歸せざる可らず茲に於て此の光輝ある桃の発見二十年組合設置三年を機とし神田市場の於ける指定問屋諸氏の賛せらるるあり以て永く本村の歴史として之を萬世に傳へんとす懐ふに時や曠古

大典に當り何等か之を記念し奉るべき好期なるに於いてをや因て植桃以来の沿革を録す

 

大正四年十一月              三等郵便局長 安藤安撰并書

内藤慶雲刻

 

 

東大島小創立50周年の記念事業として伝十郎桃の植樹にチャレンジ―

平成17年(2005年)東大島小は創立50周年を迎えました。当時同小に勤務していた上田敏明教諭は伝十郎桃の由来を調べるうちに発見者である吉沢寅之助翁の末裔が大島5丁目にご健在であることにいきつきました。寅之助のひ孫である吉沢庸子さんの聞き取りをつうじて庸子さんの祖父で旧田島町長だった吉沢保三氏の十年日記を明らかにすることになりました。

さらに、大正の末期に大島から姿を消したはずの伝十郎桃が多摩川上流へと移って行き川崎市フルーツパーク(現在川崎市農業振興センター)で花桃の木に接木されていることも分かりました。そこでその穂木(ほぎ)をフルーツパークよりいただき、校庭にある花桃の台木に創立50周年記念事業として接木することにしました。この接木は成功しましたが、残念ながら実がなりませんでした。

創立50周年記念接木の風景

 

―地域ぐるみの新たな挑戦―

このことをうけて新たな桃戦が始まりました。地域、小学校、市職員労働組合、市農業振興センターの4者協働で「伝十郎桃」を復活させ、地域及び小学校の農業理解を促進する事業がスタートしました。

この事業目的として、川崎区は明治の頃桃や梨の産地であり、その後、開発が進み現在では川崎区に果樹栽培は無くなってしまいました。そこで川崎区で地元発祥の桃“伝十郎”を学校の植栽として復活させ、地域や小学生に対し、川崎区では昔桃や梨など果樹の産地として農業が行われていたことを知ってもらうために本事業は始まったと述べています。

川崎区内の東大島小、向小、渡田小、田島小、藤崎小、殿町小6つの小学校に平成20年(2008年)10月、「伝十郎桃」の苗木は絶滅しているため、他品種の苗木を植えつけ、平成21年(2009年)3月つくばにある独立行政法人農業生産物資源研究所ジーンバンクから「伝十郎桃」の穂木を取り寄せ、接木しました。

教育委員会によれば、2年目にあたる平成22年(2010年)すべての学校で成功、東大島小8ヶ所のうち1ヶ所、向小6ヶ所のうち1ヶ所、渡田小5ヶ所のうち1ヶ所、田島小10ヶ所のうち3ヶ所、藤崎小12ヶ所のうち2ヶ所、殿町小10ヶ所のうち2ヶ所で新芽が確認されたそうです。教育長は私の6月市議会質問に答えて「100年と言う歳月を超えて接ぎ穂から花が生まれ、次世代につながっていくという生命力のすばらしさを子どもたちに教えたい」と述べています。

さらに経済労働局長は専門家の見地から3年程度は結実してもすべて摘果して実の栄養を枝木にわたらせ、木が大きくなる3年後には伝十郎桃の果実の収穫が可能と答弁しています。

そして阿部市長も3年後立派な実がなり福島名産の桃と食べ比べができるように見守って生きたいと答えました。

114年の時空をこえて今川崎に「伝十郎桃」が甦ろうとしています。

 

―「桃のある風景」岡本かの子より―

川崎が生んだ小説家岡本かの子は高津区溝の口にあった大貫病院の娘で、鬼才岡本太郎の母であることはつとに有名です。

岡本かの子が著したエッセー「桃のある風景」に「伝十郎」が出てきます。

このエッセーは岡本かの子の夫となった漫画家岡本一平との出会いをつうじて、かの子のゆれ動く想いを綴った大変興味深いものですが、恐らくかの子が20才の頃、つまり大正初期の頃、すでに多摩川一帯の果樹園は伝十郎桃が主流であったことが伺い知れます。

かの子は桃についてる〝伝十郎?という呼称にまるで人間のように呼ばれるこの名を憶い出して声を出して笑ったと書いています。

かの子の鋭い感性には桃が咲き揃い、萌黄いろの桃の葉が鮮烈に映っていたようです。

 

 

―大島三丁目町内会創立40周年記念誌―

昭和61年(1986年)大島三丁目町内会は創立40周年にあたり、169ページにおよぶ記念誌を刊行しました。

この中に伝十郎桃に関する記述が4ページに亘って書かれています。残念ながら吉沢寅之助家は大島2丁目西運庵の近くにありましたが、すでに引越されたと伺っています。

今日残っている資料はこのページしかないようです。

吉澤寅之助(資料)

資料:吉澤寅之助

 

―おわりに―

平成22年8月8日大島八幡神社例祭が盛大に催されました。終了後直会の席で114年ぶりに「伝十郎桃」が今、6つの小学校で元気に甦ろうとしていることを私から申上げました。すると市川緋佐磨稲毛神社宮司より、ぜひ大島八幡神社に植樹してもらいたいと要請がありました。すでに大島八幡神社には禅寺丸柿が植えられ毎年秋になるとたわわに実るようになりました。これに川崎区大師駅前にある若宮八幡宮の長十郎梨が一堂に実りを迎えたら、まさに川崎はくだものの郷となることでしょう。50年ぶりに甦った〝川崎の浜?であさりが採れ、春には伝十郎桃が咲き、そして夏には伝十郎桃を食べ、秋には長十郎梨を食してみたい、そんな夢を見ながらペンをおきます。

川崎評論2010より

 

© 2018 飯塚正良ホットライン