石敢當建立50周年の集い 2020年8月28日

川崎・沖縄・佐藤惣之助一つに絆いで半世紀

川崎市議会議員 飯塚正良

 

沖縄県宮古島から川崎市に贈られたJR川崎駅東口の「石敢當(いしがんとう)」建立から50年を迎えた。川崎と沖縄友好の絆に思いをはせようと「石敢當建立50周年記念のつどい」が8月28日石碑の前で開催された。1959年9月、宮古島では風速64.8mの巨大台風の甚大な被害に見舞われた。宮古島民は「ソテツ地獄」と言われるような状況に追い込まれる。川崎市議会は救援を決議し全市を挙げての募金は355万円に達した。
石敢當はその時の義援金に対する返礼として沖縄から本市に贈られてきた5体の一つである。石敢當は中国から伝来し、魔除けのために沖縄県や鹿児島県にみられる。

つどいは、川崎沖縄県人会が主催して行われた。比嘉孝会長は「コロナ禍で、つどいの開催を迷ったが、建立50周年を祝いたいという思いから開催にこぎつけた。宮古島台風(サラ台風)と昨年より始まった首里城再建義援金のとりくみは、川崎市民が沖縄で『ゆいまーる』と呼ぶ助け合いの精神にあふれ、沖縄じゃないかと思われる熱気で支えていただいた。今後とも石敢當を友好のシンボルとして受け継いでいきたい」と決意を語った。

 

来賓として出席した福田川崎市長は「川崎沖縄県人会と川崎市制施行は1924年(大正13年)同じ年にスタートし、4年後には100周年を迎える。それだけ本市と沖縄のつながりが強いといえる。だからこそ川崎の玄関口に石敢當を据えることはシンボルとして大きな意味を持っている。その友好のスピリットはこれからも受け継がれていくだろう。大正時代から沖縄の方が川崎に働きに来られて川崎の発展をつくった歴史があり、これからも次の100年に向けて川崎・沖縄の友好が深まることを期待する。」と述べる。

つどいの中で、サラ台風を少年期宮古島で経験した関東宮古島郷友連合会会長嵩原信夫さんは「台風で家が倒壊しそうになって一家で隣の家に避難させてもらい、命拾いした記憶がある。川崎市議会の皆さん・川崎市民の皆様が義援金をおくってくださったことに感謝の気持ちでいっぱい」と語った。

来賓として、山崎直史川崎市議会議長、上間司沖縄県東京事務所所長、新垣進関東沖縄経営者協会会長から挨拶をいただいた後、斎藤文夫川崎市観光協会会長・元参議院議員から「今日は沖縄かりゆしシャツで参加した。今から50年前この石敢當除幕式に当時の青山正市議会議長と共に神奈川県議会議員として参列させていただいた。あっという間の50年だった。

 

川崎市制施行当時から川崎には沖縄出身者が多く居住していた。特に競馬場の前身であった旧富士瓦斯紡績工場に大勢の沖縄出身の女工さんが働いていた。こうしたことから沖縄と川崎の友好はつくられてきた。
日頃からの交流が、サラ台風への義援金につながった。50年という歳月を経て、今日のコロナウィルスに対する厄除けとして石敢當が見直されている。一日も早いコロナウィルスの感染が収束することを期待する。」とのべた。

つどいでは挨拶はなかったが紹介が行われ、花輪孝一川崎市議会副議長、そして1959年台風被害に対し市議会決議を挙げ行動に取り組んだ第15・16代川崎市議会議長青木喜市氏御子息青木晋也さん、青木茂夫さんに1970年石敢當建立に尽力した第18代川崎市議会議長青山正市氏御令孫青山悦郎さんが紹介される。

つどいの最後に、昨年度の川崎市文化賞受賞者の藤嶋とみ子花柳流扇乃会会主から石敢當の由来について説明があった。藤嶋会主は川崎郷土研究会会員で「沖縄の心を「石敢當」に託して」の研究論文がある。石敢當は中国から伝来され、その数は1万基あるといわれている。魔除けで辻々に建てられている。沖縄と川崎の交流の始まりは先程の旧富士瓦斯紡績に多勢の沖縄出身の女工たちがつとめたことから始まる。ところが1923年関東大震災では多くの沖縄出身の女工さんたちが亡くなったという。悲しい歴史にもふれる。

石敢當が持つ魔除けという効能が新型コロナウィルスにたいしても御守りになるのではと結ぶ。
これは後日談だが、帰りに会主の友人から石敢當を撫でてきたという話にほっこりさせられた。
もしかすると石敢當が新型ウィルスに対する護りになるかもしれない。

 

<つどいをつうじて訴えたかったこと>
―佐藤惣之助、川崎、沖縄を絆ぐシンボルとしての「石敢當」―

1959年5月15日川崎市民からの浄財によって首里城跡地(当時琉球大キャンパス)に、沖縄をこよなく愛した川崎が生んだ詩人佐藤惣之助の詩歌碑が建立された4ヶ月後、宮古島台風によって甚大な被害が沖縄各地にもたらされた。
川崎市議会では青木第15代議長の下、救援募金活動が全市をあげて展開されることが決議され、その募金総額は約355万円(当時はアメリカ軍政下にあり1万ドル)に達し、1960年5月4日琉球政府東京事務所長金城増明氏に青木議長から贈呈された。
この「石敢當」は義援金に対する返礼として届けられた。まさに佐藤惣之助、川崎、沖縄は一つであり、そのシンボルこそ「石敢當」である。

-川崎の元気を支えてきた先人と子や孫たち-
この「石敢當」の川崎駅前設置には紆余曲折があった。10年後1970年9月1日、当時の川崎市議会第18代議長青山正市氏が川崎市交通安全協会会長だったこともあり、交通安全の願いを裏面に刻んで設置にこぎつける。青山議長の決断であった。
記念式典には第15.16代青木議長の子息晋也氏、茂夫氏、第18代青山議長の令孫青山悦郎氏が出席された。
50年の時空をこえて、川崎・沖縄の絆が子や孫の時代に受け継がれている証である。

<資料>
①沖縄タイムス(2020年9月12日の記事より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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