6月19日(金)<吉沢康子さん寺田茂乃さんを10年ぶりに訪問>

関東大震災当時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが流布され、都内では多勢の朝鮮人が虐殺された。川崎ではデマと虐殺に対して吉沢さん、寺田さんの祖父である吉沢保三さんが(当時田島町長)朝鮮人を守りぬいた。このときに朝鮮人団体からいただいた銀杯を10年ぶりに拝見させていただく。
実は昨年の川崎市文化賞受賞者藤嶋とみ子さん(日舞扇之会会主花柳錦右先生)から吉沢庸子さんを紹介してもらいたいという要請があり実現した。
まずは銀杯を拝見する。藤嶋さんから矢継ぎ早の質問。何故これだけの文化財が残っているかという問に寺田さんが答える。当地は戦時中現在の大島市営住宅一帯に捕虜収容所があり、大島4丁目から大島5丁目のにわとり公園一帯は爆撃をうけなかったという。それで残ったという。収容所の関係で現在のスーパーライフあたりには教会があり、修道女(シスター)がいて英語を教えていた。吉沢・寺田姉妹も通った。
生徒の中には映画スターとなった藤村志保さんもおり、彼女は中学高校はフェリスに進学したという。
もう一つおもしろかったのは何故爆撃をうけなかったかというと収容所の屋根にはⓅと書いてありこれが目印となったのではないかと推察する。川崎市内では川崎市庁舎が残った。昨年取り壊す前に近隣の皆さんに集まっていただきお別れの会を開催した。その折何故残ったのかという議論があり、時計台が教会に似ていたからという分析があったが、これは当たっていないと思う。このあとの利活用を考えればGHQの進駐事務所として使用することを想定していたと考える方が正しいように思う。
「10年日記」は保三氏の緻密な毎日の日記帳であるが、大福帳と天候・作付けから収穫が日刻みで書かれている。
最後に藤嶋とみ子さんからこれだけの文化財をぜひ「東海道かわさき宿交流館」で展示ができないかという提案があった。
早速関係方面と話してみたいと思う。

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