12月8日(火)<遍照寺、75年経て半鐘里帰り>
第2次世界大戦中、戦況が厳しくなる中「金属類回収令」が始まった。川崎区中島の光明山遍照寺は供出に応じ、半鐘が75年という時空を超えて寺に里帰りした。
太平洋戦争開戦から78年経た12月8日、遍照寺の本堂に於いて半鐘返還式が行われた。私も遍照寺お経の会会員として出席した。
<半鐘の仕様>
高さ64㎝、最大幅37㎝、重量30㎏の青銅製の小型の釣鐘。表面に刻まれていた寺や寄進者の名前は供出の際に掻き消された。さらに供出時の衝撃により「乳(ちち)」という突起の一部が破損している。
服部文化財課長の説明によれば、文化財課職員が青銅の分野の研究を専門とし、掻き消された碑文を1年に亘りデジタル解析し、寄進された年代が江戸中期正徳元年12月、さらに寺院名が光明山遍照寺であることを解読した。まさに涙の物語であったという。
<発見の経過>
発見は昨年夏、静岡県富士市の鉄工所が廃業に追い込まれる。残ったものを整理していると、先代が集めていた数個の半鐘が出てきた。厚木市江木の地名が刻まれており、同市の文化財担当者が、残りの半鐘に刻まれていた「河﨑領」の名前から川崎市に連絡が入る。川崎市教育委員会は半鐘を運び解読を始めた。青銅研究を専門分野とする職員がデジタル撮影を重ね、「光明山遍照寺」を特定することができた。
<半鐘の価値>
この半鐘は銘文のある半鐘としては、現在把握しているものの中では市内最古で、作者も明確であることから、本市における近世の信仰史や文化史、地域史を知る上で貴重なものと市教育委員会も認めている。とはいえ、銘文が掻き消されていることや、表面に「30㎏」と大きく書かれているほか、一部欠損があることから、文化財としての評価への影響が考えられる。
<今後のとりくみ>
半鐘は来年2月以降、川崎市役所第三庁舎ロビー、市平和館で一般公開を予定している。
遍照寺の坂本住職は半鐘をこのままの状態で戦争の生きたしるしとして公開するのか、それとも文字が削りとられる前の状態に修復し、寺の宝とするのか迷っているとのこと。
本市としても坂本住職の考えを十分に配慮した対応が必要である。